こちらの『小さなポストの物語』は、故 好和社長が執筆した内容をそのまま掲載しております。 イヌイフュージョンを立ち上げた今は亡き前社長、竹内好和が物作りへの情熱で自身の軌跡を辿りながら彼の手で最初のホームページを作ったのです。 そしてその彼の思いを全スタッフが受け継ぎ、今のイヌイフュージョンが存在しています。
1990年に西田和人と私が再会した事からこの物語が始まりました。それ以前のことを思い浮かべると、何とかして会社の経営の方向性と将来のやるべきことや目的を見付けたいと強く願い続けてきましたね。
本当に余裕などなかったですね。今になって、何とかやるべき方向性を人にも語れるようになったし、語っていることが具体的に見えてもくるんですね。それってやっぱり実績とか結果が出ていないとちゃんと話が相手に伝わっていかないものだなぁーとも感じていました。
本当に同じ事を言ってたつもりでしたが、その頃はなかなか周囲の人々には理解してもらえなかったことを覚えています。
1991年に西田がうちの会社に入社したいと言って、前の会社をやめてしまった時は、まだこちらも新事業の準備ができていませんでした。
今だから言える事かもしれませんが、本当に腹を決めた事件でした。デザイナーという存在を雇い入れる余裕は当時ありませんでしたから。やはり物事を始める時のタイミングっていうのでしようか、一瞬の判断の大切さを感じたときでした。あの時にそれをしなかったら今が無いとつくづくと思いました。
開発事業としては、何する当てもなくハンドメイドの商品開発というよりも、まだ技術開発の段階程度でした。ですからまずはロートアイアン・鍛金等の制作方法から検討し、技術習得からと言う無謀なものであったと思いますが、プレスの加工及び周辺技術が底辺にありました。
いま思えば、そのときから将来的な方向性を考えていくデザイン力が常に問われていたんですね。
本当に無茶なことであったと思いますが、多分今からやれと言われれば同じパターンでやるでしょうね。但し、やるべきことがわっかていればそれを真っ先にやれることに越したことは無いんですが、何をやるべきかをしっかりと掴んだ訳でないので、確かに無謀でした。しかし、ハンドメイドの可能性の世界を模索していました。そのもの作りのシステムが事業として成り立つ方法が無いかと。はっきりは見えませんでした。しかし現状では先細りになることは分かっていました。
だからまず動きました。リサーチしました。とりあえずの活動の基準点を見付ける為に動いたんです。何もやらず、じっとしている訳には行きません。何もできないで一生を終わってしまうなんて耐えられませんよね。新事業を求めている中で企画とデザイン力の大きな壁が見えていたんですね。
私は早速、埼玉県の工業技術試験所に問い合わせをして、デザインの勉強になるカリキュラムを探しました。その結果、埼玉県で始めてのユニークなデザインスクールを開催募集しているとの事。早速私と西田が受講生として応募した次第です。
その時の教授が後年友人になりました馬場了氏でした。そして、これを機会に埼玉県は多種の分野で活躍されている人たちを集めて、埼玉から新産業を起こすような切っ掛けになる事業をしたいということで、『埼玉デザインプラザー』という事業を企画し実行しました。
馬場了氏を中心に一流のデザイナーや大学及び研究関係者・弁理士・企業コンサルタント・各種ユニークな企業の代表者を集めたのです。私もその流れの中に入らせていただきながら、彼らと共に、『デザインマネジメント』を自分の事業に有効に活かしてきました。
ただ上記に掲載した小さなポストの写真は自分が何とかして、何かを作りたいと願っていた熱い思いが、ほとばしりながら訳も無く、夢中で自分の内側にあるものをスタッフに提示する為に作ってしまったもの。プロの方から見れば本当にお粗末なものですが、その頃の熱い思いを忘れないためにも残しました。お恥ずかしいですが、いま思うと楽しい時間でした。そして、それがこの小さなポストのオブジェなのです。
今ではスタッフのデザイナーや職人たちが私の思いを形にし、多くのお客様のオーダーを形しておりますが、その時のものづくりの原点を忘れないように心がけています。ロートアイアンや銅製ポストの製作に打ち込みながら、更なるものづくりの楽しさを表現して行きたいです。
それが今イヌイフュージョンのスタンダードになった銅製ポストの源となった訳です。今の一連のオリジナル銅製ポストは、そんな自分の思いを西田が汗水流して完成させて答えてくれたものでした。
そういう意味で最初の『フュージョン』が始まった大切な事柄だと思っています。
イヌイフュージョンの意味は私の両親の干支を採りました。イノシシ生まれの父(亥)とイヌ年の母(戌)、人生の苦難を乗り越えていく姿を見てたことと、私自身の体験から痛切に、人は多くの人や物事に支えられ、活かされているのだと実感していることです。
そして、人と人が出会ったことから生まれる無限の可能性と融合していくエネルギーを実感しています。それらの思いを会社の社名にすることで、経営理念にしているのです。
人生で出会う良き人々と、どのように融合していくか、そのことが私の事業のすべてのスタートとするため『フュージョン』=融合していくことを大きなパワーとしたのです。今その融合の連続が年毎に大きく育ってきています。
その意味でもここから『小さなポスト物語』の序章が書き始められたと思います。機会あるごとに私たちの物語を書き続けていくことが、私の仕事になって行くように、これからも大いなる夢を描き素晴らしい手づくり感動工房で皆様の暮らしの中に、限りなく上質なものづくりを目指していきます。
ロートアイアンとは、本来はヨーロッパの文化として発展してきたものです。ロートアイアンは英語で(Wrought Iron)と書きます。ロートとは“加工した”“鍛えた”“細工した”という意味であり、鉄を手仕事によって造形していく訳です。一般的に、鉄を真っ赤に赤めてハンマーで打ち、これを何度でも繰り返しながら、デザインした形に造作していく加工方法です。
鉄の持つ素材の性質を充分に知り抜いてこそ、現在の生活も充分アピールできるだけの素材だと思っています。その良さを知ってもらうだけで、今よりも一段と皆様に使われていくと製品作りをめざしていこうと思っています。
工業化時代の前は、鉄の製品はすべて手仕事による鍛造によって形が造られ、生活の道具や武器は勿論、ヨーロッパでは建築の分野においても鉄工芸による手作りの装飾エレメントが発達してきました。
今日では鉄の加工技術は格段に進化し、その殆どが工業製品になってきましたが、ヨーロッパで発展した鉄の装飾デザインの価値観は、その後もヨーロッパ文明と共に世界的に受け継がれ、 ロートアイアンは伝統的なヨーロッパの手工芸鍛鉄によるデザインの表現です。
私たちもそのロートアイアンのデザインの表現力に惹かれて、昔からの鍛冶屋さんという仕事の技術を生かしながら、デザイン性のあるものづくりに挑戦しています。
手工芸鍛鉄の持つ可能性は、現代の時代の住空間にも生かされていくものと信じております。
ここに紹介する歌詞は、昔は学校の唱歌として歌われたものです。
この二つの歌を私などは、どうしても一緒に思い浮かんでくる歌です。昔の村人にとって、村にある鍛冶屋さんの存在は大変大きな存在だったと推測します。世界的な視野から見ても、鍛冶屋は昔はその村の村長についで、地位も高かったと言われていたり、祭事でも重要な役割をしていたという文献も発見されているそうです。
この『村の鍛冶屋』の歌詞の一部に、刀はうたねど大鎌小鎌、馬鍬に作鍬 鋤よ鉈よ。平和の打ち物、休まずうちて、日毎に戦う懶惰の敵と。ありますが、ここに書かれている農道具のひとつとっても、お百姓さんにとって大切な農作業の最も必要な道具です。
この農機具の発達が大きな生産を生んだわけですから、農家にとって村の鍛冶屋さんは特別な存在ではなかったでしょうか。そんな意味で、ここに紹介した二つの歌詞には、とても大きな意味を含んだものだと、前々から感じていました。
鍛冶屋そして、農産物の豊作を祝う、村の祭りとは、切っても切れない関係なんだなぁーと思い至ったわけです。
ここに一枚の写真を掲載しますが、これは私どもが東京都の足立区に昔、農家をしておりましたお客さんから頂いて、ショールームの看板として作り変えたものなんですが、このベースがその農家で昔、使われていた農具である『鍬』です。
ここではわざと塗装をしないで、錆びた感じがどんなに素敵なものかをお見せしておりますが、お百姓さんはこれらの農具を大切に磨き、錆びないように手入れをして、農作業に励んだのでしょうね。
戦争の武器は作らないけど、一生懸命に農作業に役に立っているだと言うこの『村の鍛冶屋』の歌詞の意味を当時の鍛治屋さんの心意気と感じて、この歌詞の背景を大切にしたいと思っています。
少し長い歌詞ですが、昔からの詩なので、言い回しが難しいのですが、雰囲気と躍動感が良くでていると思います。
ロートアイアンの歴史は紀元前3000年頃のエジプトから始まり、古くは主に武具として刀剣、鎧、蹄鉄などが作られてきました。ヨーロッパ中世時代には教会、城郭、都市建造物などの装飾性を兼ね備えた実用品として使われ始め、アールデコ、アールヌーボの時代を経て、芸術、建築などの各分野にも発展してきました。
日本では、6世紀前半の遣隋使・遣唐使の時代に鍛鉄の技法が伝わり、農耕具、日本刀などが作られましたが残念ながら建築装飾への発展することはほとんどありませんでした。
しかし、今日の日本で私たちのようなロートアイアンの魅力に出会ったものが、ヨーロッパで建築装飾として、文化的に発展したロートアイアンの世界を、日本人の持つ独特なデザイン性と発想力で、今新たな建築装飾文化を築こうとしています。
その意味から、今後益々多くの現代版の鍛治屋さんらが、ロートアイアンによって、素敵な住空間デザインを表現していくことでしょう。
ロートアイアンの可能性は、これからの日本の住空間にも大いに生かされていく可能性を秘めています。
例えばアイアンの持つ素材の性質から、その強度性を生かした室内階段の製作など、木造では出来ない空間演出など狭小なスペースにも変化の富んだデザイン性の高い空間が表現できます。
また室内の家具にしても、異素材との融合で、例えばガラス・木・石等と組み合わせて、テーブル・棚・キッチン周り・階段フェンスなどのインテリアの各種装飾性の富んだものなど。室内のパーティンションなどの一部の造作からもっと大掛かりなアイアンハウスなど店舗スペースからサンルーム的な使い方まで、本当に多種多様な提案が出来るのです。
その加工性の良さ、堅固さ、質感と重量感。そして場合によっては、そのボリュウム感というか、その存在感の演出効果は、多く建築装飾などでは立証済みな訳です。
ロートアイアンは鉄の棒材、板材などの鉄材を炉で熱して軟化させ、色々な工具や治具を使って形を造りだし、主に建築と生活の装飾品を手仕事で表現した工芸品ですが、ロートアイアンに対し鋳物(鋳造品)製品は溶解した金属を型に流し込んで造形する量産可能な製法で、本来ロートアイアンによって表現されたデザインをコピーしているものが多くロートアイアンと紛らわしくなっており、ロートアイアンでも同じものを量産することはできますが単純な量産なら鋳物の方が効率的な場合もあります。
よく鉄は錆びやすいといって、敬遠される方がいますが、私も見たこともありますので良く分かりますが、街中で見かけたスチールフェンスや門扉は、かなり肉厚の薄い(肉厚の1ミリ以下)スチールパイプで製作されたものだからです。ぼろぼろに錆びて朽ちている姿を見れば誰だってアイアンの門扉などは、嫌だと思います。でもそれは大きな誤解があります。
確かに鉄は錆びます。でも同じ錆びても、一般にアルミや亜鉛などより安定しています。
そして、私どもが考えているロートアイアンは鉄の無垢材を使用するのが原則です。
無垢材ですと表面は錆びても、空気つまり酸素に接しているのは表面だけです。鉄の表面錆び皮膜が出来る事により、中々内部までは錆びて行きません。ですから表面を防錆処理をしなくても、かなりの対抗性を持っています。その上で防錆処理をした塗装をし、そのメンテナンスを定期的にしっかりと行えば、無垢の鉄材は半永久的に持つのです。
事例で言いますと、私が実際に見たことがあるもので、東京都の谷中の墓地に明治十数年に立てられた墓地のアイアンフェンス(無垢材)があるんですが、いまだ当時の形状を保っています。
かれこれ100年以上は建っている計算になりますか。それに今の状態は無塗装な状態になっている状態にも関わらずです。それを見たときに感動してしまいました。
但し、一箇所だけフラットバー形状の材厚:6~8ミリぐらいあった厚みのところが、110センチぐらいが2ミリ位の厚さに腐食されていて、大きな穴になっていました。たぶんそこの部分だけ雨の流れている水のたまる場所で、腐食してしまった場所なんだろうと推測しました。
もしこのフェンス(外柵)が、定期的に塗装されていたら今でも、半永久的に昔の形状と状態で今も存在していたことになります。そんなことを思いながら、それにしてもそれだけの年数を経っても、美しく錆びて、存在しているフェンスを見て、私はある種の感動を覚えました。鉄は自然素材なのだと、私は錆びていく中での自然な感じがすきなんですが、そんな経年変化していく素材の美しさを感じたのでした。
そして、そのとき以来、堂々と錆を恐れずに、お客様にも錆びることを前提でお話をし、その上でしっかりと表面処理の塗装を可能な限りの状態をご説明した上で、お話を進めています。
それらをしっかりとご説明すると、多くのお客様が分かってもらえました。今度時間あったらもう一度その谷中の墓地に行って、そのフェンスを撮影してこようと思っています。
それともうひとつは、その塗装をしている好例を紹介します。やはり東京の元赤坂にある迎賓館の門扉です。
何度も何度も塗装されている表面はペンキに重ね塗りで、これまた独特の雰囲気を醸し出しています。そのなんともいえない表情を一度見て頂きたいです。やはりその迎賓館の門扉はかなりの年月が経っているはずです。
それでもしっかりと美しく存在しています。これらは私たちにとって身近な事例ですが、これらの事例はいくつもいたるところにあります。それらはすべてスチールパイプではなく、無垢のアイアンです。そこの点をどうか覚えておいて下さい。そのようなことから、私どもは、ロートアイアンなら錆びても大丈夫だと経験的に確信しました。
それでは、もう少し今までのお話を踏まえて、鉄の錆びの話をしたいと思います。
普通我々は鉄鉱石と言う鉄の酸化物(さび)から,エネルギーを使って,酸素をうまく切り離して鉄として使っています。表面のさびもそれ以上酸素をくっつけるのは大変なため,表面が酸化膜(さび)でおおわれてしまうと,それ以上酸化が進むことはむずかしくなってしまいます。
それゆえに無垢の中身の入ったぎっしりした鉄を使うことで、表面処理された(下処理・上塗装など)無垢の鉄であれば、半永久的な状態を表面処理の作業を怠らなければ、本当に夢ではありません。
地中の鉄がみんな錆びたらどうなるんだろうと思ってたんですが、鉄鉱石ってもともと酸化物だったわけなんですね。
鉄が錆びると、ボロボロになって朽ち果ててしまうってイメージがあるんですが、薄いとそうなるのであって、固まりだと表面だけで、中は中々錆びては行きません。
錆ですが、身近に知っているのは赤錆でしょう。赤錆は酸素(空気)や水と接触しているとよく発生します。しかし、瞬時に発生するものではなく、じわじわと発生・進行します。当然表面が錆びてしまうと内部にまで酸素・水が侵入できにくくなって、錆の進み具合は遅くなります。
しかし、赤錆び自体がボロボロであるため、時間をかけて、やがて全て錆びてしまいます。
ですからここの段階で表面処理を施してあれば、そんなこともありませんし、塗装作業を怠っていたとしても、その皮膜が剥離してから、徐々に錆皮膜が出来て、安定し、それから鉄の錆の特色である付着が弱い分、徐々に錆がぼろぼろになって朽ちていくわけです。その期間は通常の生活環境ですとかなり長い年月がか駆ることになります。
但し、海岸線側付近ですとそれが、もっと早く表情が現れてきます。
これは本当に蛇足になりますが、かなり前に旅行で福島県の小名浜に行ったときです。小名浜港の海岸付近で、漁猟で昔使っていた大きな鎖がありました。その鎖は錆でぼろぼろの状態でした。
私それに触れ、本当に大木の木が枯れて腐ってぼろぼろの状態となんら代わらないほどのなっていた訳です。手で触れて指で彫るとぼろぼろと取れます。その時、私は鉄は本当に鉱物なんだ、土なんだと実感した瞬間でもありました。鉄が自然素材であり、地球にしっかりと帰っていくものだと実感したとき、益々鉄が好きになりました。そして、自然にやさしい素材であるこの鉄の魅力を、ロートアイアンの魅力を感じたのです。
ほとんど錆が発生しない鉄があります。
黒錆がついている鉄は、これ以上まず錆びることは無いそうです。
私も何度か、うちの工房で油焼きなどやったことがありますが、中々錆びないと言うところまでいってないようです。他に色々な方法で鉄の持つロートアイアンの風合いを通常の塗装で出せない試みもしています。
この黒錆は非常に緻密で、一旦鉄表面に発生すると空気や・水を鉄表面に全く浸透させません。つまり、コーティングされているわけです。そのため赤錆になりません。
黒錆とは実は、黒錆は普通の状況ではできません。高温に熱せられた鉄を水の中に入れるなど、一気に冷やした場合にだけ発生します。つまり、「焼き入れ」ですね。昔の人は経験からこうして人工的に黒錆をつけ、鉄製品が錆びないようにしていました。黒錆は今でも錆び防止に使われています。
高純度鉄というほとんど不純物を持たない鉄がありますが、これは全く錆びないそうです。
その鉄なんでしょうか。インドのデリー鉄柱は外にありながら、いまだ錆びないと言うことで鉄の世界では7不思議に入っているそうです。
以下はそのデリーの鉄柱に関しての参考文献を参考してください。私も大変に勉強になりました。専門的なので文面はそのままに掲載しておきます。
インドの旧都デリー近郊にあるクワトゥル・イスラム・モスクに鉄の柱が立っています。
柱は地下1mの根部分を含めて全長7.3m,径は底部で0.442m,頂部で0.3m,全重量は6t程度と推定されています。
柱に刻まれた梵語の碑文や頂部の飾り様式から4世紀頃に立てられたと考えています。しかし1600年の間野外に曝されながら,今尚朽ち果てずに原型を保ったままそびえたっています。
建造以来1700年近くも錆びずに建っているため、鉄の世界での7不思議となっています。
日本にもあります,奈良の法隆寺に使われている鉄釘は約1,000年経過した今でも充分に機能をはたしています。
実は、アショカ・ピラーの鉄柱がサビない原因は純度の高さではなく、不純物であるリンにあった。熱い鉄を叩くと鉄に含まれるリンが表面に押し出されて、鉄と結合してリン酸鉄を作り出す。それが表面を覆って防サビ効果を上げていたというのである。
インドで産出される鉄鉱石のリンの含有量は、オーストラリアや南アフリカに次いで多いことが分かった。さらに、古代インドでは鉄を熱する際に、リンを含むカッシア・アウリキュラータという植物の根を炉の中に加えていたという。
つまり、アショカ・ピラーは鉄を叩いて作る製鉄技術とリンを含む鉄鉱石、カッシア・アウリキュラータの根という要素が重なってできたインドの歴史的遺産と考えられるのである。